SHORT STORY

HIGH CARD Short Story - 006 フィンとクリスの昼下がり

作:武野光  絵:えびも

 時刻は正午をまわり、昼休憩に入った。俺はサンドイッチを口に詰め込んでから、クリスの腕を引いて裏口から外に出た。
「なんだよ、フィン~。俺、これから食後のデザート食べるんだけど~」
「今日やるって約束しただろ? ほら、いくぞ」
 中庭には柔らかい陽光が差していて、バーナードのじいちゃんとヴィジャイが手入れをしている植栽には紫の花が咲いている。
「しょうがない子だねえ。ちょっと待ちなさいよ」
 あからさまに気乗りしていないクリスは、立ったまま瓶詰のカスタードプディングをスプーンで口に流し入れた。
「早くしてくれよ。時間無くなっちまうだろ」
「はいはい。分かりましたよっと」
 クリスに格闘技を教えてもらう約束をしていた。
 なんだかんだ言ってカーディーラーとしての仕事も忙しいため、何度か予定が流れていたのだが、今日はようやく2人とも都合が合った。
「俺としては、男と汗臭いことするのは趣味じゃないんだけどね」
「いちいち気持ち悪い言い方すんじゃねーよ。ほらほら、早く教えてくれって!」
「教えるほどのもんじゃないけどねえ」
 俺はジャケットを脱いで、ネクタイを引き抜き、ガーデンチェアにかけた。腕時計も外してシャツの袖をまくる。
「ていうかフィン、けっこう戦えるじゃん。別に余計に訓練する必要なくない?」
「いいから早く教えてくれってば!」
 ハイカードに加入する前、俺にはダチとボクシングごっこに興じている時期があった。しかし何度かクリスと任務を共にして、本格的に訓練を積んでいる人間はモノが違うことを知った。
 話に聞くとクリスは幼い頃、親父さんに格闘技を仕込まれていたらしい。基礎技術としてはムエタイとMMA──総合格闘技だそうだ。要するに体術という点では何でもできる。
「そんじゃま……かわいい後輩のために二肌くらい脱ぐか。手取り足取り、その他いろいろ取っちゃおうかな」
 どういう意味なのか、クリスはにやりと笑った。
「構えてみて」
 クリスが言った。
「おうっ」
 俺は肩幅の広さでスタンスを取り、左足を前に出す。そのまま両手を頬の高さにあげた。
「ボクシングらしいねえ。はい、シャドーしよう」
 シャドーは相手を頭の中でイメージしながら攻撃したり、避けたりすることだ。
 ワンツー、フック、アッパー、ボディ──ダッキングやスウェーバック、回避も交えながら打っていく。地面の石畳と革靴が擦れて音が鳴る。
「どう? なんか変えたほうがいいか?」
 クリスは相槌するように、鼻から深く息を噴き出した。
「そのままでいいんじゃない?」
「ンだよ、なわけねーだろ! ちゃんと教えてくれよ!」
「いやいや、ほんと。よくできてるよ。だいたい任務でバチボコに殴り合うことなんて滅多に無いからね」
「この前あっただろーが」
「フィンは目がいいから大丈夫よ。そもそもこんなところじゃ無理なんだって。特にMMAなんて組んだり寝転がったりしないといけないし。俺のベッドまでついてきてくれるなら話は別だけど」
 軽口を無視して俺は踵を返す。
「じゃあいいよ! ウェンディに教えてもらうから」
 するととっさにクリスが腕を掴んでくる。
「それはやめろ! ウェンディはいざ指導するとなったら加減できない、壊されるぞっ!」
「じゃあ早くアンタが教えてくれよ」
「はいはい。そんなに俺と組んず解れつしたいのね」
 クリスはジャケットをガーデンチェアにかけた。ネクタイを引き抜いて、第一ボタンを外す。深緑の盤面の腕時計を外して、最後にシャツの袖をまくった。高身長のせいもあって細身に見えるが、腕はたくましく、青い血管が手首の先まで走っている。
「じゃあ、もう一回構えて」
 俺が構えると、クリスが後ろに回り込んできた。両手を肩に乗せてさすってくる。
「うーん、いい骨格だ」
「べたべたすんなよ」
「いや、真面目な話よ? フィンは体も強いし、あと意外としなやかだよね。じゃあ、もっかいワンツーからいこうか」
 ワンツーを打つ。
「ちょっと脇が空いてるわけよ。あとジャブが伸びてない。フィンは両利きだから意識すればバランスよく打てるよ」
 言いながらクリスは俺の腰骨を包むように持った。むず痒い心地がしたが我慢する。
「俺に身を委ねて……リラックスして……」
 ぬるい吐息が耳にかかる。
「余計なこと言わなくていいんだよ」
「はい、左。腰を回すのを意識して」
「こう?」
「もっと肩入れて。首をすぼめない」
「こうかっ」
「体を流さない。足の力乗せて」
「これでどうだっ!」
 すると、ぼっ、と小さく拳が風を切る音がした。
「おおっ! 今の音、聞いたか!? すげーパンチ!」
「ま、こんなもんでしょ。でもスポーツと実戦は話が違うわけで。ルールを勝手に作ったら負けるっていうのは喧嘩のセオリーでしょ。フィンは粗削りなのがいいんだから、自分の目と勘を信じてやればいいんじゃない?」
「あんたにしては妙に説得力あるな……ていうか腰から手を離せよ」
 クリスは笑みを浮かべながら、おどけたように両手をあげた。

 昼休憩を使ったクリスの格闘技レッスン中だ。
 お陰でパンチのキレが良くなり、俺は興奮していた。
「すげーよ、クリス! やっぱ真似事とマジのやつは違うんだな!」
「えっ、さすが敬愛すべきクリス先輩だって? あっはっは、そんな褒めそやすなよ。一生ついていきます? コラッ、先輩をおちょくるんじゃないぞ。あっはっは」
「マジでそこまでは言ってねぇし思ってねぇ」
「真面目な話、フィンは基礎ができてるからな。じゃあ今日はこんなところで。俺はデザートタイムに戻る──」
 振り返ったクリスの腕を掴んで引き戻した。
「まぁまぁ、そう急ぐなって。もうちょっと付き合ってくれよ」
「プディング、冷蔵庫にあと3つあるんだけど……」
 俺は無視して続けた。
「でもさ、さっきのワンツーはボクシングの延長じゃね? ソーゴー格闘技はここでは無理としても、ムエタイは教えられるだろ?」
 クリスは諦めるように息を吐いた。
「細かいことを言えば山ほどあるけど、パンチとキックだけ言えばそんなにキックボクシングと変わらない」
「ふむふむ」
 自分のことながら、こんなにクリスの話を真剣に聞くのは珍しい。
「大きな違いはムエタイには肘打ちがあるのと、極めつけは首相撲ってやつだな」
「あー、首相撲って……相手の首を抱えてぶん投げたり、膝をぶち込むやつか? こんな感じの」
 俺は頭の高さで両手を抱え込むようにしながら、ぴょんぴょんと膝を打ち上げた。
「それそれ」
「教えて!」
「そんな簡単にできないって」
「じゃあ俺でやってみてよ」
「え~」
「せっかく上着脱いでんだから、それくらいいいだろ」
「ほんとにしょうがない子だねえ。ちょっとだけな。ちなみに指名料かかるけど大丈夫?」
 無視すると、クリスが一歩前に出てきた。近くで向かい合うと、結構な身長差を感じる。
「じゃあ俺の首に手を回して」
「こうか?」
 クリスのうなじに手を回すと、体温が伝ってきた。
「チューしないでよ」
「ふざけんな」
 するとクリスも俺の首を包むように両手をあてがった。俺の腕の内側に、クリスの腕が伸びてきている。
 俺が見上げる形で視線がぶつかっている。
「これが首相撲の体勢ね。こっから肘とか膝を打ったり、投げたりするわけ」
「うんうん」
「ちょっとやってみると──ほいっ」
「うおっ!?」
 ──気付くと空を見上げていた。
 投げられたというよりは、転ばされた感じだった。地面に尻をつく寸前で、ぐいっと腕を引き上げられて立つ。もしクリスが手を離していたら無様に地面に転がっていただろう。
「スゲー! なんだこれー!」
「原理は難しくないのよ」
 またクリスが手を回してくる。
「俺が腕に力を入れるとフィンは踏ん張るでしょ? そうすると体重が移動して片方の足が軽くなるから、そこに足を当てて回していくと──ほいっ」
「うお~!」
 再び快晴の空を仰ぐ。
「わははっ! やべー、これ!」
「親戚の子供と遊んでる気分になってくるねえ」
 あまりにも簡単にやられてしまうため、おかしくなってきた。またクリスに引き起こされる。
「悪用厳禁だぞ。だが女の子を転がすときは別だ。優しく、それでいて情熱的に――」
「マジで魔法みてーだなー」
 洗練された技術というのは理解しないで体験すると、本当に摩訶不思議に感じるものだ。
「教えてくれよ、これ」
 空間を相手に素振りをしながら言う。
「いいって、やらなくて。得意なこと伸ばすほうがいいよー?」
「いーだろ。減るもんじゃねーし」
「俺だってフィンみたいに避けたりできないし。そういうところはある意味、捨ててるんだから」
「あんたの場合は首がへし折れようが顔が吹っ飛ぼうが問題ねーもんな」
「みんな俺のことを替えが利くオモチャみたいな言い方するよねー」
 今度は教えてもらったワンツーを反復する。
「あんた、いつもふざけてるけど意外と理論派だよな」
 クリスが顎を撫でる。
「経験豊富でインテリジェンスも併せ持つ、皆のお兄さん……そう、俺がクリス・レッドグレイヴです」
 前髪の半分に指を通してかき上げた。
「うんちく説明してくれてるときとか、なんかヴィジャイみてーだったぞ」
「やめろ。誰が純粋培養プラントだ」
「呼びました?」
「うおおっ!?」
 俺とクリスは驚いて後ずさった。
 テーブルを囲むガーデンチェアの一つに、ヴィジャイが足を組んで座っていた。テーブルの上の観葉植物――たしか今日はアマンダ――の葉を撫でている。
 ヴィジャイは涼し気な視線をこちらに向けながら、ガラスマグの中の湯気立つチャイを口にした。

 若葉のような淡い緑のスーツが、日差しで一段と目に優しい色になっている。パンツの裾にある版染めされたような薔薇とつるは、まるで意図された植栽の一部のように溶け込んでいた。普段は見えない紫のソックスが、この光景では見事な差し色になっている。
 ヴィジャイが中庭にいると、絵画のようだった。
「いたのか、あんた……。びっくりするから声かけろよ……」
 俺の言葉にヴィジャイは眉一つ動かさない。小さな口の動きだけで答える。
「2人で仲睦まじくしていたので、邪魔をするのもどうかと思って」
 ガラスマグをテーブルに置いて、細長い指を閉じて天に向けた。
「私に構わず、続きをどうぞ」
「なー、フィン。もう終わりでいいでしょ。ここで優雅にティータイムされても気になるだろ」
 それもそうか、と思いかけたところで、気になった。
「そういえばヴィジャイって何か格闘技とかやってたのか?」
 クリスが嗚咽するフリをする。
「そんなこと気になるかー?」
「いえ、特にこれと言うものはありません」
 ヴィジャイが真顔のままで答えた。
「え、そうなの? 俺はてっきりハイカードの奴らは全員ちゃんと訓練されてて──」
 クリスが俺の話を遮って肩に手を置いた。そしてため息をつきながら首を横に振る。それから言った。
「おい、ヴィジャイ。ちゃんと答えてやれよ。要するにお前は格闘ができるのかって聞かれてるんだよ」
「ああ……そういうことですか。てっきり私は特定の格闘技を修練しているかと聞かれたのかと思いました」
「どういうこと?」
 意味が分からず俺はクリスとヴィジャイの顔を交互に見た。
 するとヴィジャイがガラスマグをテーブルに置いて、音も無くゆっくりと立ち上がった。
 そのとき、ごうっ、と音を伴いながら、つむじ風が起きた。ヴィジャイのジャケットが巻き上がる。
 風はすぐに止んだ。中庭に落ちていた数枚の葉が地面から巻き上がった。
 ──一瞬の出来事だった。
 ヴィジャイがいつの間にか俺の目の前にいた。
 距離にして2メートルも無い。
 ヴィジャイが動いた気配を感じると、まばたきの速さで、アイボリーの革靴が俺の頭上を凄まじい勢いで通過した。一瞬遅れて起きた風に、俺の髪が持ち上がる。
 そしてヴィジャイは何事も無かったかのような平静の面持ちで、その場に佇んだ。
「……あっぶな! 何してんだ、ヴィジャイ!」
 クリスが怒声をあげた。
「……す、すげーハイキック! 足長すぎだろ!」
 そしてヴィジャイは革靴に乗っていた一枚の葉を腰を折って拾いあげた。指先で葉柄を摘まんで、くるくると回している。
「え、もしかしてハイキックで葉っぱを……キャッチしたのか?」
「そこにあったのでちょうど良いかと思って」
 さも当然と言わんばかりだ。
「すげえええ!」
「いきなり蹴るんじゃないよ! 危ないだろ!」
「見せたほうが早いかと思って」
「わざわざフィンの頭の上を蹴る必要ないだろ!」
 クリスがヴィジャイを叱るが、いまいち噛み合っていない。俺がクリスの前に出る。
「ヴィジャイ、あんたあれか! テコンドーとか、蹴り技系やってたのか?」
「フィン! 格闘技習いたいモードになってるだろ! ダメ! 俺に習いなさい!」
 ヴィジャイは一瞬の間を空けてから極めて冷静に答えた。
「特に何というものはありません。私はハイカードに加入する際に全般的な戦闘訓練を受けています」
「全般的って言っても、得意なやつとかあるだろ」
 またヴィジャイは一瞬の間を空けて考えてから答えた。
「強いて挙げるとすれば……ヨガ、ですかね」
「ヨガつえーっ!」
「どう見てもヨガの動きじゃないだろ! フィン、冷静になれ! お前、ヴィジャイにヨガ習いたいのか?」
「いや、ヨガはいいわ」
 そのとき、背後から声をかけられた。
「フィンさん、クリスさん、お昼休憩は過ぎてますよ」
 バーナードのじいちゃんだった。地面に落ちている葉っぱを箒でまとめている。
「えっ、マジ?」
 テーブルの腕時計を見ると、確かにもう13時を過ぎている。
「やばい! 戻るぞ、フィン! レオからまた説教食らっちまう!」
 焦るクリスと俺だったが、ヴィジャイはまたガーデンチェアに腰かけて足を組んだ。
「おい、ヴィジャイ! あんたも戻るだろ!?」
「私は昼休憩の時間をずらしています」
「じゃあ言えよ! 時間過ぎてるの分かってただろ!」
「そうだ。言おうと思っていたんですが……2人とも今日の午前中が締め切りだった調査書、提出していないですよね」
「だから言えよ!」
「ダメだ、フィン! ヴィジャイに構ったら泥沼だ! 行くぞ!」
 店の方からレオではなく、ウェンディの怒声が聞こえてきた。また雷を落とされると思うと恐ろしくて、俺とクリスはジャケットを腕に抱えたままで走った。
 視界の端に見えたヴィジャイが、湯気のおさまったチャイを静かに飲み干すのが見えた。

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